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桂樹は、学長室で特上のステーキをナイフとフォークで手に食している時、ふと自らの設立したゴキブリ王国の事を思った。 思えば、設立してからと言うもの、この学長の仕事のお陰で放ったらかしになっている事を思い出したのだ。
(ステファニー、シンシア、セシル、ご免よ。オレは浮気はしない男だから)
ステーキ肉を頬張りながら、しばらく見ぬゴキブリ達に謝る。 そして、桂樹は携帯を手にし、宇宙科学部にいる十樹に電話をかけた。
『何だ? 桂樹』
コール音は三回、すぐに十樹に繋がった。
「十樹、ゴキブリ王国の様子を見に行ってくれ。オレは今(食事中で)手が放せない」
『私も今、研究中で手が放せないんだ。そうだ、お前の友達に見てもらうといい』
「オレの友達?」
『東郷とかいう……(変わり者の)』
桂樹は、分かったと言って携帯を切った。
(何で、十樹が東郷の事を知ってるんだ?)
疑問に思ったが、「まあいいか」の一言で済まし、桂樹は東郷の携帯に電話をかけた。
『はい、東郷です』
「オレだ」
『オレ?』
声の正体が誰だか分からない様子の東郷に、「察しの悪い奴だな」と桂樹は舌打ちした。
「白石桂樹だ。お前に頼みがある」
『頼み?』
桂樹は、ゴキブリ王国の様子を見に行くように告げると、東郷から悲鳴にも似た声が発せられたが、桂樹は構うことなく、一方的に電話を切った。
☆
その日の大学病院は何故か暇だった。 患者の数も少なければ、医師や看護婦の数も少ない。
遠野瑞穂は、医局の受付で大きく欠伸をすると、医局の電話からコール音が響いた。
(救急患者の受け入れかしら……)
瑞穂が受話器を取ると、電話の相手は見知らぬ男性の声だった。 それが、SPである事を知ったのは、次の言葉を聞いた時だ。
『遠野瑞穂様、すぐに学長室にお越し下さい』
「学長室……?」
瑞穂は、学長である十樹の事を思った。
(さっき会ったばかりなのに、何の用かしら?)
「あ……でも、私は仕事が……」
『これは学長命令です』
SPの半ば強制的な言動に、瑞穂は腹を立てた。
「何よ、偉そうに! こっちは人手不足なんだから、代わりの人でもよこしなさい」
『分かりました。その様に致しましょう』
☆
午後も終わりを迎えた頃、医局に訪れた一人の老人が、病院で受付を済ませようとしていた。 通常であるなら、白衣を着た医療スタッフの女性が受付にいる筈なのだが、その姿はない。 代わりにいたのは、黒いスーツに黒いサングラスをかけた、長身の男だった。
SPの一人である。 黒いスーツの下は、恐らく鍛えあげられた肉体があるのだろうSPを見て、老人は驚き、その場で小さな悲鳴をあげると尻もちをついた。
「いらっしゃいませ」
SPの一人は、老人に対し紳士的にそう言うと、老人に手を差し出しカルテに指名を記入するように促した。すると、立て続けに患者が大学病院に訪れた為、SPの一人は、さらなる人員を呼び、病院の人手不足を解消していた。
受付に三、四人のSPが、忙しそうに働いている様は、当然患者にとって異様な光景として映っていた。
――この病院は大丈夫なのだろうか
患者達は皆無言で、外側からみると患者を人質にとったマフィアが、身代金を要求しているかの様に見えたのは言うまでもない。
☆
一方「ゴキブリ王国」の様子を見に行く任務を任されていた東郷は、恐る恐る「ゴキブリ王国」へ向かった。 「ゴキブリ王国」は周囲から「多分、来場者はゼロだろう」と誠しやかに噂されていたのだが、大学ニュースで取り上げられてからと言うもの、日に数人ものカップルが訪れるようになっていたのだ。
大体は、男の度胸を試すために、女が誘うケースが多い。 男からしてみれば、実に嫌なデートスポットである。 女は、そんな男の頼りがいを見極める為だと思われ、そこでお付き合いの継続か、別離となるか、決定されてしまうのである。
勿論、東郷は後者であるのだが、今まで彼女らしい彼女もいなかったわけだから、「ゴキブリ王国」で、度胸を試された事などない。
「ご来場ですか?」
東郷が「ゴキブリ王国」の前に立ち止まっていると、受付のお姉さんがそう問いかけてきた。
「いや、僕は、白石桂樹先生に様子を見てくる様、頼まれて――」
東郷は、中にいるゴキブリを見ているより、受付の綺麗なお姉さんをいつまでも見ていたかった。
「そうですか。でしたら、ご自由に中にお入り下さい」
「はい」
しかし、受付のお姉さんは、無情にもこのまま入り口で留まる事を許してはくれない。
呪われた我が身の運命に打ちのめされながら、ゴキブリ王国の中心へと歩みを進めた。 そこは、東郷にとって、まさに地獄だった。
一面、大きなガラスケースに閉じ込められたゴキブリ達が、東郷が入って来たことで興奮し、飛び回っていたのだ。 何匹目かのゴキブリが、ガラス越しに東郷の顔面めがけて飛んできたとき、東郷の意識はそこで途絶えた。
☆
「東郷の奴、連絡が遅いな」
学長室で腹を満たしている桂樹は、ピザまんとステーキの追加注文をSPに頼みながら、そうぼやいた。
――やっぱり、東郷に「ゴキブリ王国」は任せられなかったか……
そう桂樹が思った時、学長室のドアがノックされた。
「どうぞ」
桂樹がそう言うと、SPと共に瑞穂が入ってきた。 入って来るなり、瑞穂は桂樹に文句を言った。
「ちょっと、人の仕事の妨害して、どういうつもり?」
つかつかと、高いヒールの音を響かせながら、学長室の机をパンと両手で叩いた。
「椅子を彼女に用意してくれ」
「はあ?」
SPは、瑞穂に椅子を差し出し、桂樹と向かい合わせに座らせた。
「今日はオレの奢りだ。何か頼め」
「貴方、桂樹くん!?」
「し――っ!」
桂樹は、一部のSPしか知らない事実に、慌てて瑞穂の口を塞いだ。 そして、桂樹は瑞穂に食事のメニュー表を差し出した。
「ちょっと、一人で食べるのに飽きてきたんだ」
瑞穂は、桂樹の意外な言葉を聞いて、思わずかしこまってしまった。 一緒に食事をしたい相手が、自分である事に驚いたのである。
「え? あ、あの桂樹君」
「食わないのか? 何でも頼んでいいんだぞ」
「何でも?」
「ああ」
瑞穂は「何でも頼んでいい」と言う、瑞穂にとって至福の言葉に、ついっさっきまでのトキメキを忘れた。 メニューを片手に持つSPに瑞穂は言った。
「じゃあ、まずブルターニュ産オマール海老のコンソメゼリー寄せ、キャヴィアと滑らかなカリフラワーのムースリーヌ、自家燻製したノルウェーサーモンと帆立貝柱のムースキャベツ、包み蒸し生雲丹とパセリのヴルーテ、手長海老のポワレとサフランリゾット、甲殻類のクリームソース、国産牛フィレ肉のポワレ、季節の温野菜とマスタードソース、木の実と……」
瑞穂は、ここぞとばかりにメニューに記されていない高級フランス料理名を口にする。 もはやSPは、瑞穂によって、一流のパティシエに変貌した。 それもまた、SPの口から別のSPへ、伝達されていたのだが、メニューの全てを把握するのに、およそ二十分の時間を必要とした。
そして、全ての料理を運び終えるのに、実に二時間も要したのである。