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SKY CAFE

 幾何学大学 ~恋愛協奏曲~

   

朝日が窓辺から差し込んでくる。  翌日の朝、ほとんど一睡もしなかった東郷と桂樹は、二人仲良く並んで洗面台の前で、歯を磨いている。

「ひーか、東郷、そもそもゴキブリというのは古来から……」

「ほれ、もういいです」

 

桂樹は、ゴキブリの事を話し始めたらキリがない程の知識で、相手を眠らせない特技を持っている。

 

ゴキブリの一言だけで、最初おののいていた東郷だったが、一晩中話しこまれたせいで、過敏に働いていた神経が、少し鈍感になってしまっている。  お人好し(気が弱い)東郷は、実の所、学長と双子である桂樹に逆らってはいけないという先入観が働いて、ゴキブリの事を話し続ける桂樹をないがしろに出来なかっただけであるのだが。

 

まさか、一晩中、話を聞く羽目になるとは思ってもみなかった。

「きょおの講義って十時からでしたよね」

「ほーだ。ちゃんと原稿を見直すんだぞ。なんたって東郷は本当なら部外者なんだからな」

 

シャコシャコ歯を磨く音が聞こえる。

 

ゴキブリの話を聞いていたせいで、原稿を見直す暇がなかったと、桂樹に言えない東郷だった。

                 

 

朝も十時を回り、幾何学大学への入学を希望する学生達が、講義場に集まっている。  桂樹の所属する宇宙科学部は、トップバッターだった。

 

学生達を前に講義を始めた桂樹は、特に問題なく、宇宙科学部で行っている研究内容を話した。  入部希望者を募る場である為、桂樹は自身が扱っているゴキブリ化粧品の事は、一切話さなかった。  それと言うのも、学長である十樹から、固く口止めされていたからである。

 

数日前の事だった。

「桂樹、何だ、この明細書は……」

 

十樹は、学長室に届けられた一枚の明細書を、ひらりと桂樹の前に差し出した。  それは、桂樹が学長室に居座っていた時のものだ。  その明細書を、十樹が一つ一つ読み上げた。

「カツ丼、牛丼、親子丼、ネギトロ丼、チャーシュー丼、プリン・ア・ラ・モード、いちごゼリー、マンゴージュース、フルーツパフェ……」

 

ほぼ一ヶ月の間に、桂樹が飲食した品目は、五十八品目にも及んだ。  桂樹は「うん、うん」と頷きながら、それを聞いた。

「全部で二十五万八千円だ」

「お――っ!」

 

その金額に、桂樹が一番驚いていた。  しかし、反省する気はまるで無い。  故に、十樹は怒っていた。

 

これが桂樹宛ての明細書であれば、十樹も納得できたのだが。

「これが、何故私宛なのか、それを説明してくれるか? 桂樹」

「そりゃ、お前の代わりに学長の椅子に座ってやってたんだから、当然の権利だろ?」

 

桂樹はあくまでも正義を主張する。

「お陰で私は、SP達の間で、かなりの大食漢だと噂されているらしい。この責任は桂樹にとって貰おうか」

「何だと?」

――その責任、と言うのが、この研修センターでの講義だった。

 

ゴキブリの話は一切しない様に! と固く命じられているのだ。  それが出来なかった時は、この飲食代は全て桂樹の支払いになってしまう為、桂樹は、その約束を破る事はしなかったのだ。

                 

「次、畜産部代表、東郷豊先生です」

 

名前を呼ばれた東郷は、壇上に上がり、畜産部の代表から渡された原稿を読み始めた。  しかし、少し様子がおかしい。

「私達……畜産部は……発展と生産ライン…に」

 

桂樹が「何だ?」と様子を伺うと、こくり、こくり、と今にも眠ってしまいそうな東郷の姿があった。

――あいつ……。

 

あろう事か、東郷は眠気と戦っていたのである。  しばらくして、ごつんっ! という音が、胸につけていたマイクから響いて、会場にいた学生達が失笑した。  東郷は、前代未聞の「講義中に眠りこける」という大失態を犯したのである。  タンカで運ばれて行く東郷を桂樹は見送って、代わりに壇上に上がった。  残された原稿を瞬時に記憶する。

「畜産部の東郷先生に代わって、私が説明します」

 

ざわつく学生達を前に、桂樹が原稿の続きを読み上げてその場を収めた。  しかし、責任の一端は自分にある、と言う考えは桂樹の中にはまるでない。

 

桂樹は、こうして何人もの人間の人生を狂わせてきたのである。

                 

「学長! 桂樹先生の働きは見事でした」

 

十樹は、研修センターでの出来事を宇宙科学部の研究室で聞いた。

「畜産部の東郷先生が壇上で倒れた際、代役を務めた桂樹先生の講義が素晴らしかったと、皆が言っております。流石、学長の弟ですな」

 

理事会に出席しているメンバーの一人は、そう言って桂樹を褒め称えた。  勿論、立派だったのは、畜産部の代表が作成した原稿の出来であり、桂樹ではないのだが。

 

これによって、白石十樹だけでなく、桂樹も一目置かれる存在となった。

「ところで、学長……そろそろ、学長室に戻られてはいかがですか?」

「……私はもう少し、ダークマターの分析をしたいのだが」

「しかし、SP達が廊下で並んで待っている姿を見ますと……そろそろ」

 

研究を続けたい十樹の脳裏に、ふと桂樹の顔が浮かぶ。  思えば、いつも十樹の代わりに、あの趣味の悪い椅子に座り続けてくれていたのは桂樹なのだ。

「今回は大目に見るか……」

 

居たら居たらで邪魔な桂樹だが、いないならいないで何かと不便な奴なのだ。

 

十樹は、桂樹の存在意義を考えながら、大勢のSPを従えて学長室へと戻った。