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*「サクラの夢」に出て来る、桂樹のクローン。「オレ」と名づけられた赤ん坊の話です。
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オレは「オレ」という名前に不満がある。
オレは、歯をくいしばって、顔についた泥をぬぐった。 鼻には絆創膏、腕は傷だらけだった。 尤も、それ以上に重症な心を少年は持っていた。
「やーい! お前の名前、変なのー!」
「『オレ』だって! バッカじゃねーの!? お前の保護者」
夕日があと少しで沈もうとしている、幾何学大学の施設内にある公園で、「オレ」は一人孤独と戦っていた。 事の元凶は、「オレ」の保護者、白石桂樹にある。
それはよく分かっているのだが――
「桂樹の事をバカにするな!」
「いっいってー!」
オレは手じかにあった石を掴み取り、いじめっ子の一人に投げつけた。 すると、いじめっ子の頬に石が当たり、血が滲んだ。
「何すんだよ、お前! 傷害罪で訴えてやる!」
「出来るモンなら、してみろよ」
はっと笑った「オレ」は、その無駄に頭の良い、いじめっ子につけられた無数の傷を見せ付けた。 そう「オレ」は、この歳にして、複数の傷を持つ男なのだ。
「ちっ! 今日の所は勘弁してやるよ」
「いこーぜ? オレたち、こんな奴の相手をする程、暇じゃねーし」
いじめっ子達は、そう毒づいて去っていった。
桂樹のクローン、「オレ」は毎日こんな生活を送っている。 随分、打たれ強くなったものだと思う。 しかし、こんなオレを理解し、会話で気を紛らしてくれる奴もいる。
「随分、堂々とした、いじめに遭ってるんだね」
「一樹……」
白石十樹を保護者に持つ、白石一樹だ。 百体のクローンが造られた時から、ずっと、いつも一樹が側にいた。
正直、オレはこいつが羨ましい。 桂樹のクローンである「オレ」には得られない物を、全て保有している。 いや、オレ以外のクローン達は、全て持っている物ではあるが……。
「また、随分やられたね」
一樹は「オレ」の傷ついた身体を見て、絆創膏を差し出した。 オレ礼も言わずにそれを受け取ると、血の滲んだ膝や腕に適当に貼り付けた。
「へん、オレはただ、やられていた訳じゃないぞ」
「きっと、あいつらは「オレ」の本当の怖さを知らないんだろうな……」
一樹は、「オレ」の言った事が、ただの負け惜しみではない事を知っている。 過去、何度もこの手のいじめを受けた相手に対し、「オレ」はいつも報復をしてきた。
――今頃、彼らは大変な思いをしているだろう。
一樹は、ぼんやりとそう思った。
「オレ」は常に、オスとメスの二匹のゴキブリを内ポケットに隠し持ち、夜な夜な、いじめを企てた相手の研究室や宿舎に入り込んで、「オレ」が造った解除キーで内部に侵入し、二匹のゴキブリを、いじめっ子の家に放ってくるのだ。
二匹のゴキブリは愛を育み、子が子を生んで、いじめっ子達の家である研究室は必ず大パニック状態となる。
そうして、何故ゴキブリが繁殖したのか分からない、いじめっ子の保護者達は、子供が「オレ」をいじめていた事実を知らないまま、ゴキブリの温床となってしまった研究室から逃げ出すのだ。
その結果、近隣の研究室から忌み、嫌われ、泣く泣くその手のエキスパートである桂樹に害虫駆除の依頼をして、解決するのであった。
依頼があれば、当然、依頼料が発生し、桂樹はその金で「ゴキブリ王国」の資金を増やしているという。 桂樹は、救世主として崇められ、「オレ」の復讐劇は完結する。 「オレ」と桂樹の完全犯罪は、その様に成立していた。
「そろそろ、「オレ」がいじめられている理由を、桂樹に話した方が良いんじゃないか?」
「う――ん、いきなり名前をくれって言ってもなぁ、オレは「オレ」って名前で、ずっと通してきたんだぜ?」
「『オレ』は、自分を指し示す言葉であって、名前にはならないと素直に言った方がいい」
オレは、一樹の言う事は尤もだと思った。 しかし、自分の保護者である桂樹は、日々、「ゴキブリ王国」とお金の事だけに、頭をフル回転させている様に見えるのだ。
そして、このいじめがなければ、それを利用した生活費を稼ぐ事が出来ない。 このジレンマに、オレは頭を悩ませているのだ。
「まあ、その内、桂樹に話してみるよ」
「なんなら僕から話そうか?」
「いや! いい、自分で話すから」
オレは、平気なふりをして、一樹の善意を断った。
☆
桂樹は、オレの事をどう思っているんだろう。 研究室に帰ろうと、歩きながら、ふと考えてしまう。 ゴキブリ王国にいるゴキブリにも、研究室にいるゴキブリにも、それぞれに名前があるのに。
どうして自分には、名前らしい名前がないのだろう?
――もしかして、桂樹にとって、自分はゴキブリ以下なんじゃ……
オレは、そう悩まざるを得なかった。
☆
「ただいま……」
「お帰り」
オレの声は、どこか重く研究室に響いた。 十樹は、そんなオレを出迎えて、研究室の扉を開けた。
「どこに行ってたんだい?長い時間帰って来ないから心配したよ」
「オレ、一樹と喋ってた」
口数が少ないオレの事を、一目見るなりすぐ分かったかの様に、十樹は研究室の奥から救急箱を持ってきた。 思えば、十樹も一樹も、いつもオレを気遣い、ケガの治療をしてくれるのだ。
「桂樹はまだ仕事?」
「ああ、そう言えば一樹も帰ってこないな。明日は百人祭だと言うのに」
十樹は、綿をピンセットで挟み、消毒液に浸した。 その綿を、血の滲んだオレの膝に、ペタリとつける。 オレは、思わず「痛っ!」と声を出した。 十樹に苦情の一つでも言いたくなるが、治療だから仕方ない。
十樹の言葉で思い出したのだが、明日はオレ達の誕生日。 百人のクローンが誕生した日だ。 この日は「百人祭」と呼ばれるお祭りがある。 毎年、大規模な誕生会が行われているのだ。
今日は、その前夜祭で、子供達は早く家に帰り、それぞれ小さな誕生会を行っている。
当初、軍事用クローンとして造られたオレ達は、十樹が学長になってから、「最も慈しむべき子供達」と呼ばれ、それぞれに人権が認められる様になったと聞いている。
オレ達は多分、幸せなクローンなのだろう。
「はい、治療は終わったよ」
救急箱に薬をしまいながら、十樹が言う。 見ると、膝には、大きな四角い絆創膏が貼られていた。
「十樹! オレ、一樹を捜しに行ってくるよ」
「気をつけなさい。もう外は暗いからね」
「分かってる」
オレは、座っていた椅子から飛び降りると、研究室を出て、ある場所へと向かった。
――たぶん、一樹は図書館だ。
本を読む事が好きな一樹は、よくこの図書館にいる。 百人のクローンの中で、一番勤勉なのが一樹である。 図書館の中に入ると、オレは一樹の名前を呼んだ。
「一樹――! 十樹が待ってるぞ――!」
しかし返事はない。 仕方なく図書館の奥まで歩いて一樹を捜していると、どこからか、くぐもった声が聞こえてきた。
「一樹?」
その声を頼りに一樹を捜すと、一樹はいた。 いや、恐らく、いる。
そう、この大量に雪崩落ちた、本の山の中に。