幾何学大学　～神隠しの森～

「あの森には行ってはいけない。神隠しにあうからね」

大人たちは口々にそう言った。

この緑豊かなカーティス村では、古くから伝わるその教えを守っていた。

「ねぇ、「神隠しの森」の言い伝えって本当かなぁ。お母さんも絶対入っちゃ駄目って言ってるんだけど・・・」

「きっと嘘に決まってる-----でも確認してみる価値はあるかなぁ。今度、一緒に行ってみようか」

言い伝えによると、森の奥深くには、木々をかき分けた先に扉があり、その中に入ったものは、二度とこの村に帰ってこれないという話だった。好奇心に駆られて、何人もの人間が森の中に入って行ったそうだが、皆、森の中でそのまま消えてしまうのだ。そんな事から「神隠しの森」と呼ばれ、教えを信じるものからは、別名「恐怖の森」とも呼ばれている。

そして今日もまた、小さな小さなカップル、そして、自称探検家のリルとカリムは、「神隠しの森」へ探検に行こうと計画をしていた。リルとカリムは、共に六歳である。リルは金髪の長い髪をツインテールにしており、瞳は青く澄んでいる。カリムは薄紫色の髪に薄紫色の瞳を持ち、利発そうな面持ちだ。

二人は不思議なことが大好きだった。 村の学校にお化けが出ると聞いては、夜、家を抜け出し二人で真夜中の木造校舎を探検したり、何か珍しい動物がいると聞けば、捕獲用の網を持って走り回ったりしているのだ。 二人は「神隠しの森」へ行くという内緒の約束をして家に帰った。

☆

「ただいまー♪」

家に帰った途端、バタバタとせわしなく何やら用意を始めた娘のリルを見て、母親は心配そうに言った。

「家に帰って来るなり、何なの？またどこかへ行くの？」

「秘密----。遊ぶ約束したの！友達と」

「どこで遊ぶの？友達って誰・・・・まさか、カリムじゃないでしょうね」

カリムは、冒険心が旺盛で、それが故にトラブルメーカーとしてカーティス村では有名だった。そんなカリムとリルが、一緒にいる時を見かけると、母親は無理やり娘を家に

連れ帰っていたのであった。

「お母さんには関係なーい」

「こらっリル！」

重そうなリュックを背負って、家を出て行こうとする娘を母親は引き止める。そして、リュック毎、娘を抱えて部屋に入れ閉じ込めた。

「やだー！出してよお母さん」

リルは、閉じ込められた部屋からダンダンと、ドアを叩いて抗議する。

「しばらくそこにいなさい！また、あの子と関わるとロクなことがないんだから」

母親はドアが開かない様に、重い荷物を支えにしてドアの前に置くと、夕食の支度をするため、台所へ戻って行った。

「けーち！お母さんのバカー！」

そう叫ぶと、ベットに転がる。

リルにとって、母親はいつも意地悪だった。 もう少し、自由にやりたいことをやらせてくれたっていいじゃないかと思うのだ。

「カリムとの待ち合わせに遅れちゃう・・・・」

リルの部屋は家の二階にあり、少し高台に建っており、リルの家からは村が一望出来る。待ち合わせの場所が見えないかと、ベットから起き上がって窓の外を見た。するとカリムは、全て見通していたかのような顔をして、部屋の外。真下にいた。

「リル、飛び降りて。俺受け止めるから」

リルの母親に気づかれないよう、小声で言ってカリムは笑った。

☆

ことことこと・・・

台所で夕食の準備をしていた母親は、下ごしらえを済ませると、リルの様子を見に閉じ込めた部屋に向かって階段を登った。

「あの子、やけに大人しいわね。寝ているのかしら」

荷物を退けてトントンと部屋のドアをノックする。

「リルーもうすぐ晩御飯よ」

返事はない。

「リルー？入るわよ」

母親がガチャリとドアを開けると、そこにリルの姿はなく、ただ開いた窓のカーテンだけが風に揺られていた。

☆

その頃、二人は「神隠しの森」へ向かうための道を歩いていた。

「いたたたた・・・・」

カリムは痛そうに顔をしかめる。

「大丈夫？カリム、まだ痛い？」

リルが心配そうにカリムを見た。

「平気平気」

平気ではない。

カリムの顔には、リルの足型がくっきりと赤く残っている。窓からリルが飛び降りた際についたものだった。本当は格好良くリルをお姫様抱っこをして受け止める筈だったのだが、まさか、リルの足を自分の顔で受け止めることになるとは思わず、カリムは「誤算だ・・」と呟いた。 リルの足が顔面に直撃したのだから、それ相応に痛いのだ。

「そうだ！リル、ばんそうこう持ってるよ。カリムにはってあげる」

「え？」

カリムの鼻にぺたりと絆創膏が貼られて、気恥ずかしくなる。

「もう大丈夫だね」

「ああ、平気って言ったろ？」

鼻に貼られた絆創膏は、足型より遥かに小さいものだったが、カリムは何も言わずにいた。

-----傷は浅い、頑張れ俺。

無邪気なリルを見ると、何も言えなくなる。

カリムはそんなリルが好きだった。

☆

二人が向かっているのは、この世界の果てとも呼ばれている「神隠しの森」だ。しかし、 大人の足では、世界の果てと呼ばれるほど遠い場所にあるわけではない「神隠しの森」 は、そこに入らないようにと、あえて遠くを連想させるような言葉で、人を遠ざけようとしたのだろうと思われる。

そんな場所を目指して、しばらく二人は草がたわわに生い茂る道を歩いていたのだが、子供の足には遠い道のりに、リルの歩みは進む毎に遅くなっていく。

「リル、どうした？」

「荷物が重くて歩けないの・・・」

とうとう座り込んでしまったリルにカリムはため息をつきながら言った。

「何がそんなに重いんだ？ちょっと貸してみろよ」

「うん・・・・」

カリムは、リルの背からリュックを卸し預かると、中を覗いた。

その中身にカリムは、眉をしかめた。まず最初に出てきたのは、「探検家の心得」と言う名前の本、そしてマンガの本十冊、ガスゴンロのボンベ、お菓子少々、ヘアドライヤー、ゲーム機・・・・。

「リル、いらない物が多すぎだよ。・・・大体、ボンベはコンロがないと使えないし、ドライヤーだって、電気がないと使えないだろ？」

「あ、そっか。カリムって頭いいねー」

「リル・・・・マンガは捨てていこうな」

「ええー、駄目！すごく大事なマンガなんだよ！絶対捨てちゃ駄目！」

リルが必死にマンガの本を庇うのを見て、カリムは空笑いするしかなかった。

「分かったよ、俺がリルの荷物持つから貸して」

「うん！」

リルのリュックは、亡くなった父親から貰ったものらしく、黒いリュックだ。カリムが持っていても不自然ではない。そんなリュックを「よいしょ」と担いで、再び歩き出し

た。

「おーい、カリムー！」

遠くから呼ばれて、振り向くとゼンだった。ゼンはカリムと同じ時期に同じ病院で産まれた幼馴染だ。ゼンは茶色の髪を肩まで伸ばしている。緑色の瞳がきらりと光る。

「将来の嫁さんと一緒かー？仲のいいことで」

ゼンは、カリムがリルを好きであることを知っていて、二人でいる所をみると、すぐにからかってくる。

「違う！」

恥ずかしさも手伝って、カリムが慌てて否定すると、リルは少し悲しそうな顔をした。

「わー！リルも違う違う」

何が違うのかも分からなくなったカリムは、ゼンを睨みつけた。

「余計なこと言うなよ、ゼン」

「ゼンも一緒に行こーよ」

「え？どこに」

「か・・・・」

「わー！ちょっと待てリル、秘密だろ！」

「あっ、そうだったあ」

リルは、あどけない表情で、えへへと笑う。ゼンが、訝しげにカリムを見て言う。

「二人だけの秘密かー？」

「うん！秘密なの、「神隠しの森」に行くっていうのは内緒なの」

カリムは、もう笑うことしか出来なかった。思えば、リルに隠しごとなんて高度な技が出来ないことぐらい知っていたはずなのに。

「「神隠しの森」ってすげー、オレも行きたいぜ」

「でしょー？ゼンも一緒に行こうよ」

「・・・・・・」

カリムは、もう何も言うまいと口を閉ざした。そもそもカップルだと言われながらも、リルはカリムに恋愛感情等、持ち合わせてはいないのだ。ここはもう諦めて、三人であの「神隠しの森」へ行くしかないのだろう。カリムの背負ったリュックが歩くたび、その重さで揺れる。

「なぁ、何か食い物ない？オレ腹減っちゃってさー。家の母ちゃん酷いんだぜ。ちょっとつまみ食いしただけで、夕飯まで外で遊んで来い！って家から放り出して-----」

そう言いながら、カリムが背負っているリルのリュックを勝手に開いて中をごそごそと探った。

「何だこれ、わはは、お前少女マンガなんか読む趣味があるのかよー」

ゼンはカラカラと笑いながら荷物を探る。カリムは何も言えないままだった。

☆

「神隠しの森」は、カリムの家から約八キロ先にある鬱蒼とした森だ。そこまでカリムの持ってきた荷物と、リルの持ってきた役に立たない荷物と、何も持ってきていないゼ

ンとの三人で向かうことになる。

「なぁカリム、水くれ水」

「あ、リルも！のどかわいたー」

ゼンとリルが、カリムの持ってきた水筒を取り、ごくごくと水を飲む。まだ道途中、約三キロの地点で水筒の水は半分以上無くなっていた。

-----このままでは、「神隠しの森」につくのは無理だ。絶対に無理だ。

「ゼン！そんなにガバガバ水飲むなよ！リルはとにかく・・・・」

「あぁ？何でリルはいいんだよ。リルは良くてオレは悪いってどういう事だよ！」

「二人とも、ケンカは駄目だよー」

そんな口論をしていると、丘の上の方から、リルの名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「リルーどこにいるのー」

リルの母親の声だ。カリムとゼンは、お互い顔を見合わせて、まずいなぁと呟く。

「あ、おかーさんだ。おーい」

リルは無邪気に手を振った。

「呼んでどうするんだよ、リル・・・」

「オレたち、ぜってー怒られるぞ」

二人は、がっくりと肩を落とした。

案の定、カリムとゼンはこっぴどく叱られ、 リルの母親に「二度と娘と遊ばないでちょうだい！」と一喝された。リルは、母親と一緒に引きずられながら帰っていった。ゼンは「丁度いい機会だったんだけど、あの「神隠しの森」だもんな。仕方ねぇか」とどこか謎めいた言葉を呟いて、カリムと別れて自宅へと帰っていった。

二人がいなくなった夕暮れの道は、カリム一人の影をぽつんと残していて、どこか寂しい。カリムは、用済みになった荷物を抱える。

「明日はこのリュック・・・リルの家に返しにいかないとなぁ」

☆

その日の夜は、月の綺麗な夜だった。窓を開けると、満月の明かりが眩しくてリルは目を細めた。月の光のせいで、星が見えない。抜け出すには絶好の機会のようにリルには思えた。

色々な探検道具を母親から奪われたリルの手には、昼間、カリムから受け取った「神隠しの森」の地図がある。

「これだけ月が道を照らしているのなら、ライトなんて要らない」

よしっ、と気合を入れるとリルは部屋のカーテンを破り始めた。