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――ずっとずっと、私は彼の背中を見て歩いてきた。
時は中学三年生。受験の夏。今年から受験生となった荻野 胡春(おぎの こはる)は、目の前にいる黒髪の少年を見て頭を抱えていた。
(あぁ……。どうして、こんなことに……)
鋭い目に整った顔立ち。俯き加減に立って本を読む姿は、幼馴染である胡春の目からみても、見惚れる程。だが、そんな美形な彼を前にしても、胡春は鬱屈とした気分が晴れずにいた。それというのも。
「何処を見ている。将来ホームレスになりたくなければ、一心不乱に勉強しろ」
――この口の悪さっ……!
そもそもの始まりは、一ヶ月前の三者面談だった。いよいよ受験生となった夏。学費が安価な高嶺高校へ当然のように進学しようと思っていた胡春に、衝撃の事実が告げられた。
『荻野、お前このままだと高嶺高校 受からないぞ』
『え……』
胡春の住む所は、都会とは縁遠い田舎であるため、高校の数はかなり少ない。そんな数少ない高校で唯一 公立なのが、高嶺高校だった。だがここら辺りの唯一の公立高校であるためか、なかなか倍率は高く、毎年 落ちる者も数多い。
その現実をこの時、初めて知った胡春は、このままではまずいと焦燥に駆られ、幼馴染である藤咲 柊(ふじさき しゅう)に勉強を教えてもらうことになったのだった――
「柊は勉強しなくていいの?」
胡春が机に向かっている間、柊はずっと読書をしている。彼の方こそ、勉強は大丈夫なのだろうかと心配になるが。
「万年 赤点のお前と一緒にするな。お前と違ってオレは成績優秀だからな」
「うっ……」
そうなのだ。彼は顔だけではく、スポーツ、勉強も非の打ち所がない。そんな何でも出来る柊は、昔も今現在も、女子からの人気は高い。顔は平凡、頭はすっからかんな自分とは雲泥の差だ。
(いいなぁ。何でもこなせるって)
幼い頃から柊の側にいる胡春は、そんな彼をいつも羨ましく思うのだった。
「ほら、やり直し」
ドサッと、先程 胡春が解いた問題集の山を前に差し出す。そこにはさらに、まだ手をつけていない新しい物まで追加されていた。
(ひえ――っ!!)
胡春は心の中で悲鳴をあげた。
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「おい、胡春! 居残り付き合ってやるから、行くぞ!」
「え――っ!」
授業終了 早々、隣のクラスからやってきた柊が胡春の首根っこを掴み、無理矢理引きずっていく。これは勉強を教えて貰う以前から、当たり前の光景となっている。
「遅い! 波縫いするだけでもたもたするな!」
「夏休みの宿題がまだ出来ていない!? お前いつまで夏休み気分だ!」
「粘土で壺を作っている!? はにわにしか見えん! 形を整えろ!」
――スパルタ!
主要科目のみならず、家庭科から美術まで、ありとあらゆる居残りに付き合い、柊はまるで教師のように叱責する。一日にこれだけ居残りをつくる胡春が悪いのだが、これでは胡春の身が持たない。
一通りの居残りを終えると、教室を借りて柊による勉強会が始まった。
「お前、この前の中間考査の結果を見せろ」
「はい……」
胡春は言われるがまま、テスト用紙を机に出す。数学22点、国語30点、英語24点……。
「ふざけるな! オレが教えてやったのに、どうしてこんな点数が取れるんだ!?」
予想通りの反応で、襟を掴まれゆさゆさと揺らされる。鬼の形相の彼に、胡春は言い訳がましく。
「せ、精一杯やったつもりです……」
と言ってみるものの。
「精一杯……?」
「すみません、やってません」
柊から発する黒い威圧感に、胡春は勝てなかった。
(昔から変わらないなぁ……)
柊に言われなくとも、さすがの胡春も、自分の頭の悪さに泣きたい気持ちだ。
「徹夜だ! 今日はオレの家に泊まるつもりでいろ!」
「はいいっ!!」
――あぁ、私って……。
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辺りが薄暗くなり、ようやく柊と胡春は居残り勉強を終えた。小さな休憩を挟みながら勉強をやっていたとはいえ、胡春の頭は公式を詰め込みすぎてパンク状態だ。
「明日は土曜日だから、オレの家に泊まれ。みっちり、勉強を見てやる」
「……はい」
半分沈みかけた夕日を背にして、柊と胡春は家路を急ぐ。柊は胡春の先頭を歩き、胡春はその後ろをついていく。そのため、胡春には柊の背中だけしか見えなかった。
彼の背中を見つめていると、ふと思う。
(そういえば、昔から私は柊の背中ばかり見てきたな……)
幼い頃から柊は胡春と違い、何でも要領よく物事をこなしていた。勉強もスポーツも、学校の係りの仕事も。全てにおいて胡春の先を行く柊が羨ましくて、追いつきたくて。自分は昔から、柊に置いていかれまいと、 必死に後ろをついていっている。
今の構図は、まさにそんな自分を表しているように感じられた。
――どうしたら、柊に追いつけるのかな。
無意識に、手を伸ばしていた。 すると。
「何だ? この手」
柊が軽く目を見開いて、こちらを振り返る。気付くと、胡春は柊のシャツの袖を掴んでいた。胡春は目を丸くして自分の手を見る。
「うわっ、ごめん」
慌てて胡春は柊の袖から手を放した。自分の迂闊さが恥ずかしくて、思わず柊からぱっと顔を反らす。不審な顔をする柊に、「ゴミがついてたから」と言い訳をしたが、どこか柊は腑に落ちない様子だった。
本当のことなど、胡春に言えるわけがなかった。
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柊から勉強を教わってからというもの、胡春は勉強漬けの日々を送っていた。朝早く起きて勉強、学校に残って勉強。時には柊の家で何日かの合宿勉強なども開かれた。彼女の理解の悪さに、柊までも頭を悩ませていたが、胡春は必死に勉強に取り組んだ。その結果、最後に取り組んだ模試の結果では、ぎりぎり受かるレベルにまで到達していた。
――そして受験当日。
(……遅い)
柊は胡春との集合場所である公園前に立ち、腕時計で時間を確認した。彼女のことだから、道が分からず立ち往生するだろう。そう思い、柊はあらかじめ待ち合わせ場所を決めて一緒に行こうとしていたのだが。
(待ち合わせから、もう二十分経ってるぞ? あいつは、何をしている?)
胡春が少し遅れることを見越して早めに時間を設定したとはいえ、いくら何でも二十分は遅い。 しかし柊は、きっともうすぐ来るだろうと、三十分、四十分も、そのまま待っていた。 が。
――遅い!!
一時間が経過して我慢の限界に達した柊は、とうとう胡春の家に押しかけた。
「胡春、何やってる!!」
ノックをする余裕もなく、柊は胡春の部屋の扉を勢い良く開く。そこには、机に勉強道具を広げ、床でよだれを垂らして眠っている胡春の姿があった。
「おい! 起きろ!」
どうやら夜遅くまで勉強をしていたらしく、胡春の身体を揺すっても、なかなか目覚めない。仕方なく、柊は思いっきり彼女の頭をはたいた。
「痛っ……!」
「起きろ! 遅刻だ!」
「えぇっ!?」
遅刻という単語を聞いて、ようやく胡春は飛び起きる。勉強最中に寝おちしてしまったのか、未だ彼女は部屋着の状態だ。
「……何だ、まだ四十分もあるじゃん」
その言葉を聞いて、柊は彼女のすっからかんな頭をもう一発殴りたくなった。
「馬鹿! オレがあと二十分しかないんだよ。同じ学校でも男子と女子で試験会場が違うんだ。前言っただろうが!」
「あれ、そうだっけ」
以前 念を押して言ったはずなのだが、忘れてしまっているらしい。
――本当に、こいつは……!
「早く着替えろ。受験票忘れるなよ!」
心の底から罵倒したい気持ちはあるが、とにかく今は急がなければならない。柊はハンガーにかけてあった制服を胡春に投げつけ、部屋を一時出た。