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「はぁ。派手にやりおって、カエデの奴」
猿田彦は目の前の惨状を見て、うな垂れた。
先ほど、カエデは玉依姫と建御雷神を会わせるべく、会議に乱入して出て行ってしまったのだ。
その結果が、今の状態だった。
およそ千人はいるだろう警備兵が、無残に床に転がされている。 壁を舐めるように張り付いている者もいれば、踏まれでもしたのか、鼻から血を流す者も数多い。
(昔から、てんで変わらないのぉ)
猿田彦は、いっそ清々しい心地でその光景を見ていると。
「猿田彦様!」
騒ぎを聞きつけたのだろう。カエデの補佐を務めるシキがやって来た。
「おぉ、シキ殿か」
今年初めてシキと会ったものの、礼儀正しく人懐っこい彼は、すぐに猿田彦とも打ち解けた。 最初に見た時は、とても驚いたものだ。
「これ、全てカエデ様が?」
カエデにのされてしまった兵を目にし、シキは僅かに目を見開く。
「おぉ、やりおったわい。涼しい顔しての」
「……やっぱり、カエデ様はすごいです」
「そう思うか?」
「はい。どうしてですか?」
カエデの圧倒的な強さに、素直にシキは感嘆している。 その幼さがとても可愛いらしい。
(だからなのかのぉ。カエデがあそこまで柔らかくなったのは)
当時のカエデを思い出し、猿田彦は苦笑する。
「どうされたんですか?」
猿田彦の笑みに気付いたシキは首を傾げる。
「あぁ、ちょっとカエデの昔を思い出してのぉ。今度、聞かせてやろう」
「はい。是非」
そんな会話をすると、二人は改めて目の前の現実に向き合った。
「……と、その前に、まずはこちらの後始末じゃな。シキ殿、ちぃと手伝ってくれ」
「お役に立てるのなら」
「それが終わったら、カエデを迎えに行くとするかのぉ」
今頃、カエデは自分が倒してしまった後のことなど、頭に微塵もないだろう。
自分と似た思いを抱える二人のため、力を尽くしているに違いない。
――無事に帰って来いよ。カエデ。
数百年前からの友人の無事を、猿田彦は心から願った。
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カエデがようやく足を止めたのは、夜半を迎えた頃だった。
辺りは人の通ることのない森の中だった。 今日は満月で森の中がよく見渡せる。
――おかしい。
息をととのえながら、カエデは周囲の様子をうかがった。この場所へ向かっている最中に聞こえていた、虫の音が聞こえない。 そして、森の中だというのに、空気が淀んでいたのだ。
「カエデ殿。何が起きている」
彼女も、何かを感じたのだろう。
森の深淵の方で何かが蠢いているような、そんな気配を。
「分かりません。……とにかく、オレから離れないでください。来ます」
腰にある刀に触れ、構える。
そして、その『何か』が二人に襲いかかってきた。 それは、何本もの黒い触手だった。
触手は飲み込もうとするように、カエデに突進してくる。 カエデは抜刀し、刀でそれを二つに切り裂いた。
だが、切り裂いたはずの触手は瞬く間に傷を再生させて、再びやってくる。
(これでは、きりがない……!)
玉依姫を抱えてここまで走ってきたため、カエデの体力も尽きかけている。
こんな状態では、とてもではないが乗り切れない。
「カエデ殿……!」
「大丈夫です。姫様、私が合図をしたらここからお逃げになってください」
今、彼女まで守りきれる状態ではない。 そう判断してカエデは玉依姫に指示をする。
「それではカエデ殿が」
「私はなんとかしますから」
玉依姫が躊躇する間にも、触手はカエデに襲い掛かってくる。
「行け!」
怒鳴るようにカエデが玉依姫を追い払う。
訴えかける瞳の迫力に押され、玉依姫はその場を離れようとした。
が、一瞬でも空いた隙が仇となった。
「カエデ殿!!」
気付けば、カエデの眼前に触手が迫っていた。
――間に合わない……!
刀で振り払う暇もなく、カエデは咄嗟に目を瞑った。
その時。
「――やめよ!!」
強い制止が響いた。
長いような、短いような一瞬。 しばらくして、カエデは目を開ける。
するとそこには、自分を庇い、腕を広げる玉依姫の姿があった。
「姫、様……」
見ると、黒い触手は彼女の鼻先で止まっていた。 あれほどカエデを殺そうとしていた触手が、彼女の前では無抵抗だった。
それどころか、触手は戦意を喪失して、するすると森の奥へ引っ込んでいってしまう。
「……カエデ殿、無事か」
「はい。なんとか……」
二人は呆然とお互いの無事を確かめ合う。
(……それにしても何故、姫様を襲おうとしなかったのか)
息を整えている間、考えたのはその事だった。 カエデにはあれほど殺気を向けて来たというのにもかかわらず、玉依姫には一切 攻撃の手が向かなかった。
戦力がない者から消していくのが普通のはずだ。 触手に触れさせない何かが、彼女にはあるのだろうか。
そう考えたとき、カエデの頭に浮かぶものがあった。
――まさか。
「姫様。先ほどの触手を追いましょう」
「あ、あぁ」
カエデは玉依姫の手をとり、触手の気配を追った。
木々を掻き分け進んでいくと、やがて広い花畑に出た。 赤や黄、ピンクなど、色とりどりの花々が風に揺られている。
見ると、花畑の中央には小さな小屋が立っていた。
――やはり。
それを見て、カエデは触手の正体を確信する。
「……ここは、まさか」
玉依姫には見覚えがあるようで、口を半開きにして辺りを見回している。
「ご存知の場所ですか?」
カエデは問う。
「あぁ、少しな。とても、懐かしい場所だ」
遠い日々を省みるように、玉依姫は花畑を見つめる。 そんな彼女の背を、カエデは軽く押した。
「行ってください。あなたの最愛の方です」
カエデに背を押され、玉依姫はゆっくり小屋に近づいていく。 小屋の前まで寄ると、玉依姫は立ち止まった。
すると。
「玉依姫か?」
声が聞こえた。 低い、労わりに満ちた声。
姿は見えずとも、玉依姫には分かったのだろう。 いつも他者を寄せ付けがたい、凛とした表情をしている彼女が、まるで幼子のように顔を歪める。
「兄、様……」
震える声で、呼びたくてたまらなかった人物を呼ぶ。
「久しいな。相変わらず、君は涙もろいな」
気付けば、玉依姫の頬に涙が伝っている。 もっと近くで声を聞こうとしたのか、玉依姫は小屋に入ろうとする。
が。
「駄目です。中に入ってはなりません」
玉依姫の腕を、カエデが掴んだ。
「何故だ! 兄様はそこにおられるのだ! 一目……」
「彼はもう、堕ちかけている!」
玉依姫は目を見開いた。
「堕ちかけている……だと?」
あまりの衝撃な事実に、振りほどこうとしていた玉依姫の力が緩む。 カエデの発言に、小屋の中にいる建御雷神がふっと笑った。
「……そうだ。その者の言う通り、私は荒神 (こうじん) になりかけている。今も、理性を保つのが精一杯の状態だ」
本来、荒神は不浄や災難を払う神として崇められる存在だ。 だが穢れを身にまとい神格を失った神の場合は、森を枯らし、病をまく疫神となる。
「あの触手は、私には殺意を向けても、決して姫様は傷つけなかった。だから、あなただと思ったのです」
天照大神にお会いしたとき、彼女はカエデに居場所を教えると共にこう言ったのだ。
――行けば、全てが分かるだろう、と。
(こういうことだったのか……)
天照大神はこのことを知った上で、そう告げたのだとようやく知る。
カエデが説明を終えると、玉依姫は肩を震わせる。
だが訊くべきだと決して、彼女は問いかけた。
「……兄様、どうして、私に何も言わず去られたのです。 この数年間、私は必死に兄様を捜しました。天照大神にもお聞きしたのに、建御雷神に口止めされているからと、 いっこうにお話くださらない。何故ですか」
「……」
「それほど、私がお嫌いでしたか。兄様を慕う私が疎ましいと、顔すら見たくなくなったのですか!?」
「違う」
「なら何故!」
話が進むごとに、玉依姫の怒りにも似た感情が露わになっていく。 だが建御雷神は、なかなか話そうとはしない。
このままでは埒が明かなかった。
そこで、カエデは地面に膝をついた。
「失礼ながら、申し上げる。建御雷様、あなたはこのまま怯えて、姫様に何も話さないおつもりですか」
彼は何も答えない。 カエデはさらに言い募る。
「私は天照大神に直接 お伺いし、あなたの居場所をつきとめました。 あなたが口止めしたはずの天照大神が、地方の長でしかない私にお教えくださった。その意味を、お考え下さい」
「……」
「天照大神は、あなたが決着をつける時を待っています。……否と言うのならば、私がその小屋を叩き斬ってでも 話していただきます」
「カエデ殿……」
最強神相手に、驚くような物騒な物言いをする。 これはまるで脅しだ。 普通ならば、ここで首を切られてもおかしくはない。
だが、ここで引いてしまえばもう二度と、彼から真実を聞けないだろう。
しばらく、三人の間に沈黙が続いた。 柔らかな風が花びらを巻き込み、さらっていく。
二人共、頑として動かなかった。
建御雷神は、二人がどうやっても動かないことを悟ったのだろう。 おもむろに口を開き始めた。
それは、カエデすらまだ生きていない、遠い昔の出来事だった。
「私は昔、ある女性に恋をした。もう、五百年も前の話だ。その女性は、地方の森の長を務めていて、 彼女に会えるのは、年に一度の神無月だけだった」
彼が話し始めると、花畑だったはずの場所が、いつの間にか出雲の光景にとってかわっていた。
恐らく、彼の能力の一つなのだろう。
幻の建御雷神と、カエデには見覚えのある女性が立っていた。 建御雷神は、その女性を見つめている。 女性はその視線に気付き、花が綻んだような笑顔を向けた。
――こんにちは。建御雷様。
「たった一度 顔を合わせただけで、彼女のことが頭から離れなかった。会う度に、話す度に、 私は焦がれていった。……だが、その女性は、他に愛した者がいた」
くるくると、めまぐるしく景色は変わっていく。 その中で、女性は様々な表情を建御雷神に向けている。
だがそれは、あくまで友人として接する者の態度だった。
「それを私は知っていたから、君が好きなのだと、愛しているのだと、告げられなかった。 そして告げられぬまま、彼女は愛する者達を守って、消えてしまった」
景色は夜のような暗闇に移り変わり、建御雷神の目の前から女性がいなくなった。
代わりに幻の玉依姫が現れ、彼に擦り寄る。
――兄様。あの方がいなくなっても、私がいつでも兄様のお側におります。 だから、どうか……。
しかし、建御雷神の姿がそこから消えてしまった。
そこで映像は途切れ、元の花畑の場所に戻る。
「私はそれを受け入れることができなかった。いくら神と呼ばれた私でも、一度 消えてしまった者の蘇生はできない。 何と無力なことだろうと思った。私は自暴自棄になり、ひたすらに武力を振るって仕事に没頭した。 何にも目を向けず、考えず。ただただ、色あせた毎日を送っていた。 そのせいで、私は君までも苦しませることになってしまった。」
「兄様……」
「その罰が下ったのだろう。異形に呪詛をかけられ、いつしかこの身には穢れがまとうようになった」
建御雷神はそう言って、小屋の中から腕だけを月夜の下にさらけ出した。
それを見て、息を呑む。
包帯を解いた腕には、びっしりと黒い痣が浮かび上がっていた。 すぐに腕は闇の中に引き戻される。
「私に呪いをかけた異形は言った」
――この呪いは生涯 消えることはなく、じわじわと身体を侵食しながら息絶えるだろう。
「そんな、兄様……!」
玉依姫は小屋に手をつく。 それ以上は、近づくことを許されない。
「私は会えなかった。何百年と君から兄様と呼ばれていた私は、こんな情けない姿を見られるのが耐えられなかった。 そしてお前の気持ちに応えられない自分が、どうしようもなかった。 ……だから、私は何も告げず、君の前から姿を消した」
建御雷神にとって玉依姫は妹のような存在だったのだろう。 だがそれとは裏腹に、玉依姫が成長するごとに建御雷神を見つめる目が変わっていった。
それを、建御雷神はどのような気持ちで見ていたのか。
「今からでも遅くありません! 天照大神に治してくれるよう、お願い申し上げれば……」
「もう、いい」
「何故!」
思わず声が大きくなる。
声を荒げる彼女の頬に、手が伸びた。
「もう、いいのだよ」
伸びた手は玉依姫に触れることはなく、寸前で止まる。 愛おしむ手つきに、玉依姫は声が出なかった。
「この呪いを受けた時、もう君には会うことはないだろうと思っていた。だが、再び会えた。 もう、それだけで、私は十分だ」
「嫌だ……兄様。我、私は……!」
玉依姫の目から涙が溢れる。 すがるように触れる腕からは、光が上がっていた。
『ただ、これだけはどうか覚えていてくれ。どんな形であれ、私は君を愛していた。そのことに、変わりはないのだ』
声がかすれ、空気に溶けていく。
「えぇ、私も――」
まばゆい光が三人を包んだ。
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光りの中。少女と少年は花畑に座り、互いに笑い合っている。やがて何か口にすると、少年は少女の手を取り、走り出す。 そして二人は光に紛れて消えていった。
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その後、あの花畑でしばらく玉依姫は泣き続けていた。 しかし、もうあの小屋から彼の声が聞こえることはなかった。
「兄様……建御雷神の好きだった女性――ユキは、我の友人でもあったのだ」
花畑からの帰り道に、玉依姫は呟くように話してくれた。 口調こそ元に戻っていたが、泣き腫らした顔は、光の中で見た幼子そのものだった。
「ユキとは建御雷 同様、年に一度会うだけだったが、それでも我の最も親しい友だったのだ。 だからこそ、彼女が妬ましくて仕方がなかった」
そこで玉依姫は立ち止まり、カエデを振り返った。
「ユキが我から愛する者を奪ったように、我も彼女から奪ってやりたかった。だから我は、そなたを夫候補にした。 ……だが、もはやそれも意味がなくなってしまった」
「……では」
「あぁ、もうよい。とっとと、どこへなりとも好きにするがいい」
勝手に求婚を迫った彼女は、求婚の破棄すら吐き捨てるように言う。 しかし、これでカエデの肩の荷が下りたのも事実だ。
微苦笑を浮かべるカエデの頬を、玉依姫が手にとった。
「そなたはユキに似ておるよ。真面目で頑固で、すぐに意地を張る。そして、相手を見透かすようなその瞳が。 やはり、そなたはユキから生まれた者なのだな」
カエデを見つめる銀の瞳が、懐かしげに細まる。
カエデも、かつての友人だった人を見つめ返した。
「さて、もう夜明けだ。我は己の宮に帰るとしよう」
あっさりと頬から手を放し、玉依姫はカエデの横を通り過ぎる。
見ると、いつの間にか彼女の使いが林の側に立っていた。
そのまま帰るのかと思いきや、玉依姫は何かを思い出したのか、再び振り返る。
「いいことを教えてやろう。ユキが生きていた頃の話だ。 ユキは我に会う度、しょっちゅう話していたことがある。それは、何だと思う」
「……さぁ」
そんなこと、分かるわかもない。
カエデが首を傾げていると、玉依姫は口の端で にっと笑う。
「そなたのことだよ。ユキが話すことといえば、専らカエデ殿のことだった」
「え……」
意外な事実に、カエデは口をポカンと開ける。
「ユキがそなたに向けてた感情は、恋情ではなかったかもしれん。だが、ユキもカエデ殿を想っていた。 それだけは、知っていてくれ」
「――」
カエデは何も言えず、棒立ちする。 そんなカエデに 「ではな」と、玉依姫は森の中に姿をくらませた。
カエデがしばしその場に立ちつくしていると、向こう側から耳慣れた声が聞こえた。
「カエデ様ー!」
見ると、シキが息を切らせてこちらへ駆けて来るのが見えた。 その後ろには猿田彦もいる。
「シキ、猿田彦」
「カエデ様、どこかお怪我はありませんか!?」
「あぁ、大丈夫だ」
シキは心配顔でカエデを見上げる。 そんなシキの一方、猿田彦は大げさにため息をつく。
「あーあ。今年はお主のおかげで、とんだ後始末じゃわい。お主が警備兵を全滅させるものだから、 そこら中 大騒ぎだったんじゃぞ? 宴会にはほとんど出られんかった」
「迷惑をかけたな」
「全くじゃあ」
「じゃからのぉ」と猿田彦は懐から杯と徳利を取り出した。
「最後に、付き合ってもらうぞ」
どこまでも酒好きな友人に、カエデは呆れる。
「……もう朝だぞ。月だって、白んでいる」
「夜に飲んでも朝に飲んでも、別にええじゃろう! さぁ飲むぞ、飲むぞ! ほら、シキ殿も」
「え、僕、ちょっとお酒は……」
あっという間に賑やかになっていく森の中。 出雲大社へ戻ろうと、猿田彦がシキを連れて踵を返す。
カエデはもう一度、玉依姫が帰っていった場所に目を向けた。
かつてユキの友人だった人。 彼女はいなくなった二人の想いを抱え、これからも生きていくのだろう。
そして自分もまた、託された沢山のものを胸に秘め、森を守り続けていく。 自分の命が消えるその時まで、ユキが最後に残した言葉を果たすことができるだろうか。
ふと、先ほどの玉依姫の言葉を思い出す。
――ユキもカエデ殿のことを想っていた。それだけは知っていてくれ。
あの時、言うことができなかったことを、胸中で答える。
(……あぁ。ずっと、知っていたよ)
「カエデ! 何しとる。おいていくぞ!」
「カエデ様ー」
立ち止まるカエデを二人は呼ぶ。
カエデは微笑んで、それに応えた。
「あぁ!」
秋風が三人の間を通り過ぎていく。
薄く色づく月は、優しい光をたたえていた。
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