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桂樹が「ゴキブリ王国」に駆けつけたのは、東郷が中に入って二十分後の事だった。
「キャサリン、マリー、ミレーユ……」
「ゴキブリ王国」は、既に消防隊に囲まれていた。 目の前で、自分の恋人達が苦しんでいるのに違いない光景を見て、桂樹は力無く名前を呼ぶ。 入り口は、濛々とした煙が立ち込めている。
桂樹は、消防隊員に引き止められ、中に入ることも出来ない。 それでも桂樹は、消防隊の手を振り払って、「ゴキブリ王国」の中に入ろうとしていた。
「ここを通せ! ここにはオレの大事な恋人がいるんだ! 放せっ!」
「まだ中に誰かいるんですか!?」
消防隊員は、桂樹の言葉に目を丸くした。 現場に緊張感が走る。 消防隊員は、「ゴキブリ王国」には、もう誰もいないという事を前提として、消化活動に励んでいたからである。
「B班、c班! 救出に向かってくれ!」
「はっ!」
消防隊員の体調の一言で、マスクを手に隊員達が中へぞろぞろと入っていく。 桂樹は祈るような気持ちで、それを見送った。
☆
ガシャーン! ガッシャーン!
ガラスの割れる音が、「ゴキブリ王国」の最深部から響いた。 東郷は、中にいるゴキブリ達を助ける為に、苦肉の策として、消火器でゴキブリの生息しているガラスケースを壊して逃がす事にしたのである。
「ケホッ! ケホッ!」
片っ端からガラスケースを壊し、最深部のほぼ全てのゴキブリを逃がした所で、東郷は力尽きた。
この時、東郷は気絶してしまったのだが、東郷に取ってはそれが正解だったのかもしれない。 何故なら、彼の身体の上を、大群のゴキブリが身体の上を這っていったのだから。 潔癖性の彼は、きっとそれに耐えられなかっただろう。
☆
「うわっ」
「ゴキブリ王国」に入って行った隊員達から、思わず声が洩れる。 「何だ何だ」と他の隊員達も悲鳴を挙げた。 大量のゴキブリが、出口を求めて溢れ帰っていたからである。 救いを求めて、隊員達の身体を登ってくるゴキブリに、皆は慌てふためいた。
「ええいっ! そんな事でどうする。まず人命救助が先だ!」
「そう言われましても」
消防隊員達も人間である。 生理的に受け付けられないものは、当然あるのだ。 しかし、自分達が助けなくて誰が助けるんだ、という使命感が、消防隊員達を突き動かす。 所々で、ゴキブリに足止めをされながら、何とか最深部へと辿り着いた。
「よしっ、思ったより火は出てないぞっ! 火元に放水を――!」
隊長が叫んだ。
「ゴキブリ王国」は、ほとんどがガラスで設計されており、燃えるものが少なかった事が幸いだった。
「隊長! 人を発見しました!」
それは先程、学長が叫んでいた「恋人」と言う人物なのだろう。 隊員は、慌ててその人物を背に背負って、「ゴキブリ王国」の出口へと向かった。 隊員はその時、やけに重くて固い、大柄な女性だな、と思いながらも、口には出さなかった。
☆
火事は結局、最深部の一部が黒コゲになった程度の、ぼや騒ぎで終わった。 避難をした学生や研究員達は、授業や研究を中断せざるを得なかった為、皆「人騒がせな」と、ぶつぶつ文句を言いながら、自らがいるべき場所に帰っていった。
瑞穂は。
「だから、大した事にはならないって言ったのよ」
と、避難誘導を徹底した自分を忘れて、中断した食事会を再び再開した。
桂樹は、自分の恋人達ゴキブリの無事を確認して、感動の再会を果たしていた。 そして、逃げ出したゴキブリ達を捜し、大学内を走り回っている。 それに対しての苦情は、後日、各部から多々寄せられることになった。
病院に運ばれた東郷は、すぐに意識を取り戻したが、何故だか丁重に扱われる患者となり、不思議な気分で、たった三日間の入院生活を送った。
このボヤ騒ぎの原因を造ったカップルたちは、防犯カメラの映像を元に、大学警察が調査をし、すぐに捕まった。
こうして、「ゴキブリ王国放火事件」は幕を下ろしたのである。
☆
「桂樹……この記事は何だ?」
十樹は大学ニュース新聞に載っている、ある一軒に着目した。 それは、桂樹ですら想定外のニュースだった。 思わず、記事の内容を声に出して読み上げる。
「学長、二股か!?って、何だこれ」
「この記事によると、私は東郷と言う男の恋人がいるにもかかわらず、付き合っている彼女がいると言う事だが……」
十樹は、その内容を桂樹に告げると「ああ!」と心当たりのある返事をした。
「桂樹――っ!」
「これはオレのせいじゃねぇ! 誤解だ!」
『学長、二股疑惑にホモ疑惑』
「ゴキブリ王国放火事件」は収束したが、新たな事件は未だくすぶって、幕は下りそうになかった。
幾何学大学は、今日も賑わしい。
(終)